

追悼文
訳:小川 隆

シャノン・ラヴ ネル
ルイス・ノーダンとジョン・アップダイクとわたし
わたしが初めてルイス・ノーダンの小説と出会ったのは1983年だった。彼が〈ハーパーズ・マガジン〉に短篇――「シュガーと鶏」を載せたのだ。それはわたしがその年にThe Best American Short Storiesの編集者としての仕事で読んだ1500篇の雑誌掲載短篇の一つにすぎなかった。アメリカ南部文化を内側から描いた愉快な作品で、最初読んだときには声をあげて笑い、すぐにまた最初から最後まで読み返してみた。時間が足りるなどということがない仕事をしていたので、まずしたためしのないことだった。最終的にBASS1984年版のゲスト編集者に送るわたしの“ベスト”120篇を選びおえたとき、わたしは「シュガーと鶏」を山のてっぺんに載せ、ゲスト編集者が1984年版のアンソロジーに再録する20篇の短篇の一つに選んでくれるようにと祈った。
祈りはつうじなかった。その年のゲスト編集者はジョン・アップダイクだった。作家としては、それぞれが住んでいたマサチューセッツ州イプスウィッチとミシシッピ州イッタビーナぐらい、ルイス・ノーダンとかけ離れたタイプだ。アップダイクはノーダンの短篇を再録作品からはずしただけでなく、「1983年のその他のすぐれた作品」のリストからもはずせといってきた。「馬鹿みたいな」話だと思ったのだ。ジョン・アップダイクは当時はとても有名だった。ルイス・ノーダンは違った。ジョン・アップダイクはボスだった。わたしは違った。
わたしはアップダイクの要求を呑んだ自分がいやになった。何とか埋め合わせをすることを自分に誓った。
たまたま、1983年は〈アルゴンキン・ブックス・オヴ・チャペルヒル〉が創立され、最初の5冊を刊行した年でもあった。わたしは恩師であるルイス・ルービンの誘いに応じて、その小さな出版社の創設者の一人となった。会社は小さく、十分な資本もなく、アメリカ出版界の中心であるニューヨークからは遠く離れ、ベストセラーではなく〈文学〉専門だった。〈アルゴンキン・ブックス〉の上級編集者の席に着いた最初の日に、わたしはルイス・ノーダンのことを調べはじめた。契約したかったのだ。残念ながら、彼にはすでに出版社がついていた。同じ1983年に、〈ルイジアナ大学出版局〉が彼の最初の本、Welcome to the Arrow-catcher Fairというタイトルの短篇集を刊行していた。
やがてニューヨーク・シティの出版界も彼を見いだし、1989年、〈ヴィンテージ〉は彼の第二短篇集The All-Girl Football Teamを出版した。1年ぐらいたって、わたしはどこかの出版イヴェントで、さまざまな版元の編集者たちと同じテーブルを囲んでランチをとることになった。その一人、〈ヴィンテージ〉の編集者が短篇集を売るむずかしさを話題にした。「わたしたちが出版した最高の短篇作家はルイス・ノーダンなのに、最初の本はまったく売れず、決定が下された――もう彼の本はやらない」
わたしは公衆電話に直行して(当時はまだiPhoneもグーグルもなかったから)会社に電話し、ルイス・ノーダンとどうすれば連絡がとれるか、調べてもらった。わかったと聞いて、すぐわたしは電話した。おかげで〈アルゴンキン・ブックス〉は残りの彼の作品5冊を、1991年のMusic of the Swampを皮切りに2000年のBoy With Loaded Gunで終えるまで、刊行することができた。「シュガーと鶏」は1996年の短篇集Sugar Among the Freaksに収録された。
そういうことよ、ミスター・アップダイク。
ほんとうは、ルイス・ノーダンの天才に気づかなかったジョン・アップダイクの不明に感謝しなければ。アップダイクがわたしの趣味を侮辱してくれたおかげで、わたしはノーダンを追っかけつづけることができたのだから。彼の担当編集者になる前には作品は短篇小説を一本読んだきりで、その重要性のごくわずかな片鱗しかのぞいたことがなかった。“フィクションをまじえた回顧録”とされる彼の最後の作品を出版するときには、〈アルゴンキン〉がアメリカ文学における一大現象といえる作品を出版する特権と栄誉に浴したことがわかるようになっていた。
ルイス・ノーダンはこれまでも、これからも誰も書かないようなものを書いた。ほかの作家とはまったく異なるスタンスで、異なる状況で作品を書いた。その特異な才能は複雑すぎて、じょうずに語ることなんてまず誰にもできそうにない――ルイス・ノーダン本人でなければとても無理なことだ。
「……ぼくの狙いと意図は、自然界をありのままに、そして同時にこの世のものではないみたいに描くことなんだ」*
*ルイス・ノーダンのエッセー"Growing Up White in the South"より。
シャノン・ラヴネルはサウス・キャロライナ州チャールストン出身のヴェテラン編集者。長年、〈ホルト・ラインハート&ウィンストン〉、〈ホートン・ミフリン〉などの編集者をつとめ、1978年から90年まではBest American Short Storiesという年間短篇傑作選の編集をつとめ、1983年〈アルゴンキン・ブックス・オヴ・チャペルヒル〉を創設。2003年からは同社のインプリント〈シャノン・ラヴネル・ブックス〉の編集にあたっている。このエッセイはこの特集のために、特別に書き下ろされたもの。

ジョン・デュフレーン
アメリカ文学の至宝の一つが失われた。ルイス・“バディ”・ノーダンがきょうこの世を去った。
アーカンソー大学の教師をしていたバディに教わることができて、わたしはこの上なく幸運だった。さまざまな作品のなかでも、『トリストラム・シャンディ』を教えてもらったことには永遠に感謝している。わたしがシンディといっしょにフェイエットヴィルをあとにしたとき、最後に会ったのが彼だった。彼は公立図書館にいて、ピッツバーグで仕事が見つかって町を離れるといっていた。わたしたちのほうもルイジアナに向かうところだった。面接はちょっと厄介だったと彼は語った。学部長に履歴書に2、3年の空白期間があることを指摘されたのだ。バディはこういったそうだ。「だんじて、家に引きこもってウォッカを飲んでいたわけじゃありません」バディの著書へのリンクをつけよう。(訳注1)
2009年1月、わたしたちは何人かでオーバーン大学に出かけた。バディフェスという、またの名を「ルイス・ノーダンと、超越と希望の胸が張り裂けそうな笑い」というシンポジウムにいったのだ。バディもきていた。神経障害で動きは緩慢だったが、上機嫌で、これまでどおり機知に富み、楽しませてくれた。ピッツバーグを舞台にした書きかけの長篇の一部を朗読してもくれた――指一本でタイプしたのだ。アラバマ大学出版局がそのシンポジウムの論文を新刊として刊行してくれた(Lewis Nordan: Humor, Heartbreak, and Hope)。
“The Talker at the Freak Show”(訳注2)の一節でバディが歌っているのを聞いてみよう。
「きれいなリンネルの布を見ると、ママは列車を思い出し、列車を思い出すと、ときどき気持ちがなごむことがあった。糊の利いた白い上着姿の黒人ポーターや、猛スピードで雪原を疾走し、夜明けに名もない小さな駅を通過して大都市に向かうプルマン機関車のことを考えていた。汚れたリンネルのことや――寝台車の通路に積まれたシーツのこと――イリノイ・セントラル鉄道のエンブレムや、〈シティ・オヴ・ニューオーリーンズ〉や〈パナマ・リミテッド〉や〈ルージアン〉といったIC鉄道の列車の名前がエンボス加工された食堂車のテーブルクロスのことを考えていた。ママはそういった列車の名前を口にするのが好きだった。名前を歌ってくれた夜もあった。それらの列車を歌う、自分で作った悲しくせつない曲を。物心ついてからずっと、それがぼくの子守歌だった」
もしバディの短篇や長篇をまだ読んだことがないのなら、あなたはこれまで書かれたもっとも正直で、すてきで、胸が張り裂けそうになる小説を読んでいないことになる。
さようなら、わが友よ。
(訳注1)デュフレーンはこの空白期間のことを執筆にいそしんでいたからだと好意的に解釈していますが、本人はアル中と戦っていて仕事ができなかった時期があることを告白しています。
(訳注2)初出は〈グリーンズボロ・レヴュー〉誌ですが、第二短篇集The All-Girl Football TeamおよびSugar Among the Freaksに収録されています。
ジョン・デュフレーンは1948年生まれのアメリカの作家。マサチューセッツの出身だが、アーカンソー大学を卒業後、南部に住み、最初の長篇Louisiana Power & Light (1994)以来、ほとんど南部を題材にした作品を発表している。この追悼文はノーダンの死の直後に著者のブログに掲載されたもの。著者のご厚意により訳載を許された。