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外国語で書くということ

アリエット・ドボダール

 英語はわたしの母語ではありません――母語からは大きくかけ離れています。英語の勉強をはじめたのは11歳ぐらい、中学に入ってからで、それもあくまで学科としての勉強です。コンスタントに使いだしたのは16歳ぐらいからですし、書くようになったのは18歳からです。
 日常生活で使うのはほとんどがフランス語です。職場でも家庭でも、そのあいだのどこにいるときも、すべてフランス語です。英語に接するのはもっぱら本と、インターネットの創作フォーラムと、たまにみる英米のテレビ・シリーズぐらい。  なのに、わたしは英語で書いています。
 英語で書く理由ならいくらでも書き連ねていくことができますが(おもな理由はSFとファンタシイがいまだにひどく英語中心の世界だから)、それはこの原稿の意図するところではありません。わたしがお話ししたいのは外国語で書くということがどんなものなのか、母語で書くこととどう違うのかということです。
 わかりきったことからはじめましょう。わたしはミスをおかします。文法上の誤りや、用法の間違い、フランス語の癖、それにすぐには気づかないたちの悪いミスもたくさん。
 いちばんむずかしいのは用法です。むかしはパソコンに辞書をインストールして(いまではオンライン辞書のwordreference.comを使うようになっています)、フランス語で浮かんだ単語を翻訳していました。ときには、正確な用法や語句の意味やニュアンスをオックスフォード英語辞典(OED)でたしかめなければならないことまでありました。ニュアンスがわたしにはいちばんやっかいです。いくら流暢になったとしても、生まれながらの英語話者にはなれないですし、言葉のニュアンスにはどうしてもわからないものもあります。
 なかでも、会話は長いことたいへんな問題でした――いまだに、いくらかはやっかいです。すでにお話ししたように、家では英語を使わないので、登場人物が使うかもしれない現実的なフレーズがまだまだわたしにはむずかしいのです。その点では大会に参加することがとても役に立ちます。英語で話すことになるからです(ええ、たしかに作家の使う書き言葉の英語ですし、それもまたさらに問題を増やしてしまうのですが、それでも何もしないよりはましです)。
 なのに、わたしは英語で執筆していますし、大半はとても順調に書けます。しばらくこのことを考えてみたのですが、わかったのは、長年のあいだに自分が全面的な構造改革をやってのけてきたことです。
 つまり、英語が流暢になると、まず、頭のなかでフランス語から英語に翻訳するのをやめていることがわかります。英語で書いたり、話したり、読んだりしているとき、わたしは英語で考えているのです。それが流暢になるやり方です――でも、それはとりもなおさず、いちばんの難題が、必要な英語を理解したり、生み出したりできないということではなく、言語を頭のなかで切り替える作業になることです。フランス語から英語、英語からフランス語への切り替えはすごくたいへんで――いまでもわたしにとっていちばんむずかしいことです。
 よく人から翻訳を頼まれることもありますが、そんなときわたしはまず何よりコンテクストを訊ねます。頭のなかの辞書にアクセスして、同じ単語の2つの訳語を比べて選ぶためではありません。訊かれた英語に対応するフランス語がわからないからです。わたしにわかっているのは英語の単語の英語による意味であり、フランス語の単語のフランス語での意味だけです。ある単語をフランス語から英語に訳せといわれると、わたしの頭のなかはこんなふうに働きます。「わかったわ、この単語のフランス語の意味はこれこれで、それはこういう概念と対応している。その概念と対応する英語の意味はこれこれだから、それは英語ではこの単語なんだ」
 となると、書くことはどうなるでしょう? わかるのは、わたしは執筆活動をほかの生活から切り離しているということ、そしてスペキュラティヴ・フィクションは概して英語と結びついているということです。わたしはSFやファンタシイを英語で読みますし、そこからボキャブラリーや冴えたかっこいいアイディアを得ています。リサーチもできるかぎり英語でします。言葉を翻訳してはまた逆翻訳するという繰り返しの作業は疲れますし、そんなやり方をしていたら執筆のペースは糖蜜のなかのカタツムリの動きなみに遅くなってしまいます。また、わたしの執筆の習慣は(そして実際、作家生活は)大部分が、英語で“事前登録”されているようなものでもあります。書いて、編集して、読んで、書くことをめぐってみんなと話しあって、そんなことがループ状のフィードバックになっているのです。しかも、それをおこなうのは英語でです。
 またその副産物として、SFをフランス語で論じることはわたしにはとてもむずかしくなっています。おかしいことだけれど、そうなっているのです。
 外国語で執筆することには、思いもかけないようなポジティブな面もたくさんあります。たしかにたいへんだし、ミスだらけの過程だけれど、大いに自由を味わえることでもあるのです。いろいろな意味でわたしのフランス語は固定観念にしばられています――長年にわたって正しい文法を教えようとする教師たちにたたきこまれた上に、日常生活で接するのは陳腐な常套句だらけです(常套句は創作には使えませんが、スピーディな会話をするためには驚くほど実用的ですものね)。わたしにとって、英語にはそんな禁則はありません。言葉をずっと勝手に扱えるので、語句を思いきりひねりまわして血を流させることだってできる気がします。それはずっとおもしろい文章を作る役に立ちますし、かならずしもネイティヴではない書き手ならではの視点を活かすこともできます。ともかく、違いは出せます。
 それに外国語ならではの魅力もあります。わたしにとって、英語は音楽的ですし、ちょっとした単語でも組み合わせれば美しい文章が作れます――わたしの耳に聞こえるのはほとんど言語そのものだからです。フランス語だと話はずっとややこしくなります。ほとんどの単語にはわたしの個人的体験から生じた連想や歴史があり、わたしには関係があっても言葉とは関係のないニュアンスがあるので、歌うように心に響く言葉を紡ぎあげていく邪魔になることが多いのです。
 最後に1つ副作用があり、それは主としてわたしの最初の読者の母語が英語ではないことが原因です。ボーイフレンドと問題点をブレインストーミングするときには、フランス語でします。それは天佑ともいえることです。おかげで、問題を小説のコンテクストからはずすだけでなく、言語のコンテクストからも切り離して論じなければならなくなるからです。そのいずれもが、問題を根底から異なる基盤に移してくれます――おかげで、ほぼつねに何かしら得られるものがあります。
 ともかく、良きにつけ悪しきにつけ、これまでのわたしの体験はこんな感じです。こんなことがあと何年かは続いてくれますように!

(訳:小川隆)

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解説

 アリエット・ドボダール(Aliette de Bodard)はフランス人の父とヴェトナム人の母のもとにニューヨークで生まれ、フランスで育ったSF作家。フランスに暮らしながら、アステカ帝国が繁栄する歴史改変小説や、中国とアステカが2大文明圏を形成する歴史改変小説のシリーズを英語で書き、ネビュラ賞やヒューゴー賞の候補に選ばれたこともある注目作家。これまでに長篇3冊、短篇集1冊を発表している。翻訳は〈SFマガジン〉2012年7月号に「奇跡の時代、驚異の時代」(小川隆訳)がある。
 このエッセイはメアリ・ロビネット・コワルの質問にこたえるために書かれ、2009年4月3日に著者のブログにあげられたもの。その後ブログ上ではこの問題をめぐって活発な議論がかわされた。のちに、著者のホームページにエッセイWriting in a Foreign Languageとして再録された。テキストは著者の了解を得た上で、この改訂版をもとにした。(小川隆)

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