top of page
ブルース・スターリング
United-States.png

ブルース・スターリング

アンケート回答その1

(2012年9月公開)

India.png
Philippines.png
South-Africa.png

アンケート回答その2

(2012年10月公開)

Finland.png
France.png
Israel.png
Israel.png
Netherlands.png

アンケート回答その3

(2012年11月公開)

Australia.png
Canada.png
Switzerland.png
United-States.png
United-States.png
United-States.png

Q-1.
あなたのアイデンティティはどこの国/民族/文化にありますか?

A-1.

 ぼくは外国人と結婚して外国に暮らすことになった移住者だ。だから、アイデンティティは別にもとうとは思わない。何かに“帰属する”ことは重労働で、1銭にもなりはしないからね。それに、“アイデンティティ”がかならずしも個人の利益になるわけでもないし。アイデンティティなんて銀行や警察や移民局が人々に強制する厳格な法的条件のことだものね。“アイデンティティを確認される”のが政治的にはひどく問題になることだってある。ぼくはそれをユーゴスラヴィアで学んだよ。

Q-2.
SF/ファンタシイ/ホラー/スリップストリームといったジャンルはずっと英米語に支配されてきました。あなたがもっとも影響を受けたのは英米のジャンル小説ですか?

 

A-2.

 ああ、そうだね。きっとそうなんだろうな。正直にいえば、ジャンル小説を読むより、科学や建築やデザインや歴史の本を読むことのほうがずっと多い。最近では影響の大部分はソーシャル・メディアからだな、何しろ旅行中にも読めるからね。

 たとえば、ぼくがいまこのアンケートにこたえている場所はバルカン半島の田舎の小さな村だ。英米のジャンル小説なんてろくにありゃしない。でも、執筆の大半はここでしているんだ。

Q-3.
英米小説とご自国の、あるいは非英語小説との読書の割合を教えてください。現在のものでけっこうです。

 

A-3.

 ぼくが読めるのは英語以外には、ほんの少しのイタリア語だけだ。

Q-4.
残念ながら多くのワールドなんとかは、じっさいにはアメリカのものです。野球のワールド・シリーズから、ぼくたちのジャンルのワールドコン(ぜんぶじゃないけれど)や世界幻想文学大賞にいたるまで。どうすれば、本来の枠組みにただせるでしょう、現実の無秩序な世界を反映するように?

 

A-4.

 アメリカ人は世界の人口の4%にしかすぎない。ほかのみんなはお互いをちゃんと評価しようとせずに、けっきょくこのアメリカ支配に加担している。もしノルウェイ人が本当にグアテマラ文学に興味をもってくれるなら、この問題はたちまち解決するけど、そうじゃない。それは自分の国のバスケットボール・チームがまったく同じ扱いを受けるものと思ってオリンピックに出かけるみたいなものだ。どの国にだってバスケットボール・チームはあるけれど、本当にすごいところはひとにぎりだけだ。この状況を“ただす”ことなんて起きはしない。フィジーのバスケットボール・チームが強豪と同じように有名になるように世界をただすことなんてできっこないんだ。世界中のバスケットボールのファンから総スカンを食うだけだ。


Q-5.
たしかに、ぼくたちはアメリカのポップ・カルチャーの多大な影響を受けています。村上春樹もアメリカの小説やジャズの影響無しにはいまのような小説は書けませんでした。あなたの場合も同じでしょうか? そうした影響をまったく受けずに執筆することを想像できますか?

 

A-5.

 ああ、できるよ。それは想像できる。たとえば、いま書いている短篇は1460年代のイタリアを舞台にした歴史ファンタシイだ。“アメリカ”なんてこの小説では存在すらしていない。アメリカはまだ“発見”されていないんだ。

 もちろん、このイタリアもの短篇は、15世紀ピエモンテ方言ではなく、アメリカ英語で書かれている。だから、その意味では無理だね、アメリカの影響はまぬがれない。ギリシャ哲学やローマ法をまぬがれようとするみたいなものだ。

Q-6.
最近では多くの若い作家や編集者が英語で仕事をし、アメリカのマーケットに向けて書いています。そんな仕事のしかたは邪道だと思いますか? それとも、影響の大きさを思えば当然のことだと思いますか?

A-6.

 この支配はかなり害があると思う。よくないことだ。グローバル化した英語は深刻な不安定をもたらすよ、グローバルな単一の金融制度と同じだ。

 反面、ヨーロッパに暮らしていると、言葉をめぐるあらゆるトラブルが目に入ってくる。イタリア語はイタリア語に似た数十の方言を滅ぼした。バスクや、クルドや、ウェールズといったように、埋没してしまった国もたくさんあって、そこでは言語をめぐる政治力学が切実に感じられている。

 でも、バスク人やクルド人やウェールズ人が互いの言語問題を比較するときには、英語を使うんだ。生きた人間で、バスク語とクルド語とウェールズ語を話せるものなどいない。エストニア語とマルタ語はヨーロッパ連合の公用語だ。なのに、エストニア語とマルタ語の両方を話せるものはいない。この不公平な事態に憤慨して反発して見せることはできるけれど、何のために? いくら不満があったとしても、エストニア語とマルタ語の通訳を志すやつなんか出てこないよ。現実の困難が乗り越えられないようなものであれば、それに泣き言を並べるのは自己満足にすぎない。


Q-7.
もし英語で書くことになった場合、それは英米の読者に向けた仕事ですか、それとも世界の読者に向けたものになりますか?

 

A-7.

“グローバルな読者”がいたらな、とは思いたい。でも、いたとしたら、“グローバル小説”というジャンルが確立していて、みんな“日本の名作小説”を語るように“グローバルの名作小説”の話をしているだろうね。

 グローバルな作家が意識してグローバルな読者に向けて書いた文芸作品などありはしない。グローバルなポスト国家主義文学を生みだせるほど、グローバルな意識は大きくも強くもない。でも、夢見る目標ではある。そんな作品をぼくは読んでみたい。理屈の上では、人は惑星地球を描く非常におもしろい小説を地域独自の作風で書けるようになれたらいいのだけれど。


Q-8.
地元の場で活躍している作家や作品で、世界の読者に心から推薦できるものがありますか?  それは英米にはないタイプのものだからですか? それとも、英米にもぴったりで、ともに楽しめるものをたくさんもっているからですか? 独自性と親和性とどちらのほうがだいじだとお考えですか?

A-8.

 そうだね、ぼくはイタリアのジャンル小説、“ファンタシエンツァ”は好きだけれど、好きな理由はそれがまるっきり“世界の読者”に向けて書かれていないからだ。世界の読者に推薦するとすれば、人はそれがグローバルな、普遍的な、時代を超えたものじゃなきゃいけないと思うだろう。ダンテとかセルヴァンテスとか。それはたとえば、未来のミラノを描くウィアードでポップなスリラーを書きたいと思っているクリエイティヴな人間にとっては障害となる。

 ミラノのことを書こうと思っているのに、ロンドンや上海の人間にすべて説明しなければならないと思ったら、やる気が失せるよね。いくらやっても自然さが消えてしまうもの。

 リーチャ・トロイージ(Licia Troisi)なら、エージェントと出版社と翻訳者に恵まれれば、きっと世界中でたくさん売れるんじゃないかと思う。でも、リーチャは基本的に女性読者向けの妖精ファンタシイの作家だ。もし出版社に銃を突きつけられて、「どのイタリア人作家がグローバルに大成功を収められるんだ?」と訊かれれば、リーチャとこたえるだろうね。でも、グローバルな出版社はすでにやまほど妖精ファンタシイをかかえている。リーチャがもっと売れたら、少しはうれしいと思うよ。でも、ぼくはイタリアの友人にアメリカの妖精ファンタシイをぜひ読んでごらんといったりはしない。だから、こんな態度をとったら少しおかしく思えるだろうね。

それは英米にはないタイプのものだからですか? それとも、英米にもぴったりで、ともに楽しめるものをたくさんもっているからですか?

 

 人はみんな匹敵するものがないものをすごいと思う。「ああ、この人にはオークニー諸島の生活を書いたユニークな作品があってね、こんな本を書ける人は世界中探したってほかにはいやしない」でも、そんな大法螺を吹くのはいいことかな? アメリカのコマーシャルなジャンル小説をまねするのは退屈だとわかるけど、ヴォラピュク語とかエスペラントのようなまったく内輪の言語をでっちあげるのだって退屈だ。

 ぼくはそうしたわざとらしいエキゾチシズムには疑問を感じる。ぼくの生まれはテキサスだけれど、カウボーイハットに6連発リヴォルヴァーみたいなめちゃくちゃに地元っぽい小説を書きたいとは思わない。もし誰かに「あなたの作品は日本では類を見ないものですよ」といわれたら、ぼくはびっくりするだろう。もちろん、ぼくの作品に似たようなものなら日本にも数えきれないほどあるさ。

独自性と親和性とどちらのほうがだいじだとお考えですか?

 

 おもしろい質問だけれど、『ハリー・ポッター』みたいな巨大作の存在がぶちこわしているよ。彼女が自分の作品にじゅうぶん“独自性”があるかどうか悩んで目を覚ますなんてことがあると思うかい? 彼女は世界中で売れて、イギリス女王より稼いでいる。彼女が書くのは作り物の魔法学校の話だ。制服があるのに魔法の杖もある。ハリー・ポッターと同じくらいのスマッシュ・ヒットだったポケモンは、丸い容器に魔法の動物を集めている子供を描く話にすぎなかった。

 日本には『ハウルの動く城』がダイアナ・ウィン・ジョーンズが書いたイギリスのファンタシイ小説だということを知らない宮崎駿ファンが100万はいるに違いない。前に創作講座でダイアナといっしょになったことがある。壊れたトイレの修理を手伝ってあげたんだ。ダイアナとぼくとはその現代の実際的な問題をめぐっては大いに親和性をもっていたのさ。それがぼくたちを結びつけたのは、誰にとってもだいじな問題だからだ。

Q-9.
ジャンルに関係なく、日本の小説を読んでおもしろかったものはありますか? どういった部分がおもしろかったのでしょう?

A-9.

 もういまでは予想がつくだろうけど、ご承知のように、ぼくはかなりの村上春樹ファンだ。〈ワシントン・ポスト〉紙に彼の初期作品の書評を書いたこともある。アメリカの版元では数年にわたって、それを推薦文として使っていたほどだ。

 前に、アメリカの雑誌の取材で、村上のインタビューを取るため、ハワイに飛んだことがある。そこで感心したのは、村上がハワイの郷土料理やジョギングや太平洋のクジラを見た話をしてくれたことだ――彼が体験したことの生々しい語り口にだ。彼は自分の存在の実話を語ってくれた――どこかアメリカの州をうろつきながら、痛々しいほど根源から日本人であることをかかえていたわけじゃない。ハワイはアメリカの州のなかではいちばん日本的なところだけれど、村上にはそんなことは関係なかった。彼はただそこに住んでいただけだ。

 インタビューのあと、村上夫妻と地元のレストランに出かけ、しこたま酔っ払った。ぶっ倒れたりとかしたわけじゃないけど、楽しく気持ちのいい晩だった――ぼくたち外国人がよく招かれては、能や武士道に夢中なふりをしなきゃいけない、退屈で味気ない日本のエキゾチシズムをごたいそうにふりかざす歓迎会なんかとは正反対だ。その夕食会には退屈なことなんて何一つなかった。

 

 ぼくはけっこう日本文化のファンだ。それでも、そうした無難な輸出品なんかのファンだったことはない。全世界で大ヒットした日本の文化輸出物の魅力もたしかにわかる。アニメ映画や、怪獣映画、自動車、電化製品、、漫画、ゲーム機といった、そのてのものはたくさんある。文化の輸出にかけては日本はほかのG7主要経済国のどこにもひけをとらない。

 

 はっきりというのはむずかしいけれど、日本でいちばん感心するのは、日本のクリエイティヴなアーティストが日本社会の主流から身を引いていることだ。彼らはわざと日常から逸脱し、境界の外にはずれている。

 どこの国でもアーティストの大半は変わり者だし、そうでなければアーティストの職になどついていない。日本のクリエイティヴたちはあらゆる方向に棘を伸ばすウニみたいなものだ。アメリカのアーティストだと、もっとも勇気ある過激なヴィジョンをもつ才人でさえ、アメリカの主流に受け入れられ、アメリカの郵便切手に描いてもらう栄誉に浴することを辛抱強く待ち望んでいるように見える。このアメリカ的態度はアメリカ人にとってもうっとうしい。アメリカ女性は日本女性と比べて法的にも文化的にもあらゆる面で優位にたっているとされているけれど、アメリカの女性アーティストで、草間彌生やオノ・ヨーコほど風変わりで刺激的な人は思い浮かばない。この女性アーティスト2人は日本以上にアメリカでのほうが有名かもしれないけれど、それがぼくの主張を裏付けているんじゃないかな。

Q-10.
外国文学をあなたの地元の読者に、またあなたの地元の作品を外国の読者に広めるために、あなたはどんなことをしておいででしょうか?

 

A-10.

 ああ、おもにブログやソーシャル・メディアといったインターネットを使っているよ。書きこんだり、参加したりする上での障壁が少ないからね。ぼくは旅行もたくさんしているし、クリエイティヴな人種と会うのもためらったりしない。たとえば、ブラジルやメキシコにいけば、そこでの同業者と話をしようとする。ぼくみたいになってくれなどとはいわない。ただこういうんだ。ここでは何がだいじなの? ここでは何がテーマになっているの?

 作品を外国の読者に読んでもらうためには、読者を“外国人”扱いしないことだ。出版社は“外国”の会社だし、法的権利も“外国”のものだけど。ぼくは読者がぼくとは違う種類のパスポートをもっていようが関心はない。ぼくは外国人に向かって書いているんじゃない。読者に向かって書いているんだ。

(訳:小川隆)

katatumuri.gif

ブルース・スターリング(Bruce Sterling)は1954年生まれのアメリカのSF作家。80年代にはサイバーパンクの中心的存在としてグローバルな視点でのSFを提唱し、またスリップストリームという境界作品のジャンル名を命名したことでも知られる。ウィリアム・ギブスンとの共著『ディファレンス・エンジン』など翻訳書多数。ヒューゴー賞などSF各賞も受賞している。2006年からセルビアのベオグラードに移住し、昨年からはイタリアのトリノと郷里であるテキサスのオースティンとの二重生活を送っている。最近ではメキシコSFのアンソロジーThree Messages and a Warningに序文を書いたりもしている。

bottom of page